クエスチョン

「無知の知」こそ、ごまかされないための最強の防壁|議論の方法

古代ギリシアの哲学者、ソクラテスをご存じでしょうか。「自分は何も知らない、というただ一つのことを知っている」と言ってのけた、哲学の祖です。

ソクラテスはたくさんの人間に議論を仕掛けました。しかしその議論の形は、むしろ質問攻めというようなものでした。

なにしろ、自分は何も知らないと言い切っているので、自分の方から答えはこうだということはありません。すると、ソクラテスを相手にする人は、自分の正しさを証明しなければならないのです。

どこまでもどこまでも続く、鋭い追求の中を。

■知ったかぶりをしないことの強さ

なぜソクラテスの追及を受けなければならないのか?

クエスチョン

ソクラテスが何も証明しようとしないなら、自分も証明する努力はしなくてもいいんじゃないか?

そんな気がするかもしれません。ところがそうはいかない。なぜならば、その人々は「自分は正しい答えを知っている」と思い込んでいるからです。

もし両者が共に無知の知に基づいているならば、議論を避けることができるのですが。

悪魔の証明でもお話ししましたが、「あなたが本当に正しい答えを知っているのならばそれを教えてください。すでに知っていることを説明するだけなんですから、簡単ですよね?」というのは、省エネの観点からも筋が通っています。

議論が平行線をたどるためには、両者が自分が正しいと考えて言い合わねばなりません。一方が「自分は答えを知らないので教えてください」といってしまえば、平行線にはならないのです。

■最強の防壁

相手の証明にけちをつけるだけで、自分は何も証明しようとしない傲慢な人の話をしましたよね。そういう人に対する最強の切り返しがこの、無知の知です。なにしろ、立場が逆転します。

傲慢な人の切り返し方は、「俺様の言い分に納得いかないなら、お前はどう思うんだ」です。ここで答えるからこそ、相手はその答えにけちをつけることができます。

しかしここで、「いや、私には分からない」と答えたらどうなるでしょうか? もう、相手はけちのつけようがありません。そこでもし、相手が「じゃあ俺様が正しいんだから黙ってろ」と言ってくれればしめたもの。

どうして正しいと言えるのか?

それをちゃんと証明してくれ。

と、こちらだけが相手にけちをつける名分を得られるのです。

だって、私が正しい答えを知らないからといって、私以外の全員が正しい答えを知っていることにはならないですよね。

これが無知の知の防御力です。

■議論の本質

ところで、多くの人にとって議論とは、勝ち負けを争うもののようです。しかし、議論に親しんだ人間からしてみればそういうものではなく、考え方の異なる者たちが集まり、よりよい回答に到達しようとする共同作業です。

ですので本来的には、「俺様が正しい。俺様と違う考えは全部間違いだ」ではなく、「自分は正しい答えを知らないし、たぶんまだ誰もそれを知らないんだろうけども、本当は何が正しいんだろうか」と、そういうことを話し合うのが議論であってほしいのです。

そういうまともな議論を行う方法として、これらの記事がお役に立てば幸いです。

データ

調査というのは実は切り札になり得ます。大事にしましょう。|議論の方法

調査と聞くと、すごくめんどくさそうな印象があるかもしれません。そのため、実際の情報は確認しないまま、議論を進めてしまい、いつまでたっても解決しない、なんて経験はありませんか。

そんなとき、たとえば各省庁や公的機関が発表しているデータを確認するとか、相手が主張している情報が掲載されているサイトを確認してみたりすると、あっという間に話が終わってしまうこともあるのです。

 

■警察白書や省庁などの公開データ

たとえば、最近の犯罪の傾向について議論したとして、犯罪の件数とか、年齢の傾向とかの推移のデータほど信頼の置けるものがあるでしょうか。そしてそのデータが何を記録したものなのかの定義まで目を通すと、先入観で見たときとは違った感想を持つことがあります。

また、様々なサイトで、各省庁のデータを引用して解説していたりすることはありますよね。そういうのを参考にするのもいいことです。それは全く悪いことではありません。

ただ、そういったデータを参考にする場合は、実際に省庁のサイトまで見に行った方が確実です。というのも、引用されているデータ自体は信用できますが、データの選出方法は信用できません。自分の主張に都合のいい部分だけを取り出している可能性があります。

また、何のデータなのか。どういう集計の仕方をしたのかは、引用していない人もいないので、そのあたりを確認する意味でも直に見に行くのがおすすめです。

 

データ

 

■情報サイト

あるいは何かしらの情報が、どこそこに書いてあったと主張する場合もあるでしょう。そしてそれを実際に見に行くと、誰が書いたのか分からない、何を根拠に書いたのかも分からない、何でこんなものを信じ込めるのか分からないようないかがわしいサイトが情報源だったりすると、それだけで話はおわりです。

あとはもう、聖書を信じるか信じないかの神学論争と変わりません。

あるいはこんなこともありました。相手が「このページにこういうことが書いてある」というから見に行ったら、見当たらないのです。見つからないからどこに書いてあるのか聞いたら、「話をそらさないでください」と。

そういう人たちの考え方は、適当なことをいっても、バレなければいいと思っているのです。

彼らはその場で他人をごまかしやり込めて、一時的に自分の言い分が認められれば満足します。何が正しいかなんて話には、興味を持っていません。ですから、調査されたら一発でバレる嘘すら平気でつけます。

相手の言い分が本当なのかどうか、どのくらい信用がおけるのか、それを調査するのは、議論を進める方法としては、基本も基本です。

数について

背理法は、存在しないことを証明する便利な方法|議論の方法

ないことを証明することができないわけではないとして、じゃあどうやるんでしょうか?

白いカラスが実在しないことを確認するためには、カラスを全部連れてきて確認するしかないんじゃないの? という疑問がありますよね。それは間違いではありません。たぶん、そのケースだとそうするしかなさそうです。

しかし、そのような全件検索以外の方法でも、非存在を証明できる方法というのはありまして、それが背理法です。

数について

■最大の素数が存在しない証明

数学では、最大の素数というものが存在しないことが証明されています。

仮に、最大の素数が存在するとしましょう。とりあえずその最大の素数をnとでもしておきます。そして、2からnまでのすべての素数の積をNとしておきます。

では、N+1はどんな数で割ることができるでしょうか。Nはすべての素数の倍数ですので、2からnまでのどんな素数ででも割れます。だからこそ、N+1は2からnまでのどんな素数ででも割りきれません。

ということはN+1もまた素数なのです。しかも、定義上、nよりも大きな素数です。ではN+1が最大の素数かと言えば、2からN+1までのすべての素数の積をMとでもしておけばM+1も素数ですので、これは無限に続きます。

このことは、最大の素数が存在するという仮定に矛盾します。そして、これまでの考えの中で、間違っていそうな考え方はありませんでした。この仮定以外は数学として認められている考え方なので、このような矛盾を引き出してしまった理由は、この仮定のせいです。

よって、この仮定の否定が証明されたこととします。

すなわち、最大の素数は存在しないことが証明されたことになるのです。

■背理法

いきなり数学の話をされて目が滑ったかもしれません。もうちょっと日本語でわかりやすく説明しましょう。

存在すると仮定すると矛盾が引き出される場合、存在しないことの証明としてよいというのが背理法です。ただし、扱いは難しいのです。仮定が複数あったら、どの仮定のせいで矛盾したかが分かりません。ですので、背理法を使うためには、信頼の置けない仮定は一つしか使えません。残りみんな信用できるなら、否定されうる仮定は一つだけですから。

議論において、「非存在証明はできない」という逃げ口上を封じられるのは大事なことです。多くの人は、他人に証明を押しつけて自分はけちをつけるだけになりがちです。ところが、非存在証明が原理的に可能となれば、「悪魔の証明だから」では逃げられなくなります。ぜひ、覚えておいてください。

悪魔?

悪魔の証明の意味は「非存在は証明できない」ではない|議論の方法

議論の経験がある人ならば、「悪魔の証明」というのを聞いたことがあるのではないでしょうか。「ないということを証明しろよ」と要求すると、「それは悪魔の証明だからできない」と返すような場面に心当たりはありませんか。

悪魔?

しかしこれはそういう意味ではなく、ないことを証明することは不可能ではありません。

■悪魔の証明の意味

この言葉の本来の意味は省エネです。悪魔が実在すると信じている人に対して、悪魔がいないことを証明するのは大変だから「お前、そんなに信じ込めるなら、信じ込める理由を教えろよ」と言っているのです。きっとその人は、信じ込める理由があって信じているんでしょうから、すでにあるものを出すだけでいいんだからそっちの方が楽だろ、と。

しかしそれも時と場合によります。昔は証拠もあったし、持っていたんだけど、なくしてしまったとか奪われてしまったとか隠されてしまったとか、いろいろあります。そのようにして隠滅された証拠を持ってこいと言われても、それはとても困難なことです。

そっちの方が簡単なんだから、そっちが先にやれよ、というのが悪魔の証明の意味ですので、どちらも同じように大変ならば、それは両者が努力するべきであって、一方に証明を押しつけてはいけません。

■悪魔の証明の誤解

ちなみに、悪魔の証明を非存在証明のことと考えているのはまだかわいい部類です。ひどいのになると、「ないものをあると証明するなんてできない」とか言い出します。確かに、本当はないものを、あると証明するのはもっと大変でしょうね。

でも、悪魔の証明というのは、そういう意味ではありません。

たぶんこれは、「実在するはずのない悪魔を、実在すると証明することを求められたときの言葉」と解釈してしまっているんじゃないかと思います。

■悪魔の証明の使われ方

基本的にこの言葉は逃げ口上として使われます。「あるというならあることを証明しろ。こっちはないことなんて証明しない。それは悪魔の証明だからな」というのが基本的な使用方法です。

本来ならば、あることが証明されなければあるとは言い切れませんし、ないことが証明されなければないとも言い切れないのですが、その手の人々にとっては、あることが証明されなければないことになるのです。

ないことは証明できないからしなくても証明されたことになる、というのが悪魔の証明という免罪符なんですね。

しかしまともな学者ならば、神の存在が証明されてないから実在は信じないが、非存在も証明されてないからいないとも限らない、くらいはわきまえてるものです。

データ収集

統計データからは関係が読み取れる。でも、原因は分からない。|議論の方法

ちょっと議論に慣れてくれば、統計データを利用することを覚えるでしょう。主張に説得力を持たせるには、とても役に立ちますから。しかし残念なことに、統計データが正しく利用されている場面は、とても少ないのです。

データ収集

■相関関係

あるお店で、子供についての統計データが書かれているチラシがありました。「朝ご飯を食べないことと、いらいらしやすいこと」の相関関係がグラフとして示されています。確かに、関係があることを示すグラフになっています。だからこう主張します。

「朝ご飯を食べないから、いらいらしやすくなる」

そう。たいていの人は、そういう考え方をします。だって、なんとなく、そう考えるとしっくりきちゃいますからね。

しかし、その統計データからはそういう結論は引き出せません。そうかもしれないという発想を引き出すとっかかりにはなりますし、じゃぁ本当にそうかどうか、別な方法で調べてみよう、というきっかけにはなります。

でも、データそのものは、そんなことを保証してくれないのです。

■逆の可能性

逆の考え方をしてみましょう。

「いらいらしやすくなっているから、朝ご飯を食べない」というのが事実だった場合、グラフにはどんな変化があるでしょうか?

何かいやなことがあってストレスがたまってて、夜よく眠れない。寝るのが遅いから起きるのも遅い。朝ご飯を食べる時間がないから、つい抜かしてしまう。

これだと、無理に朝ご飯を食べさせたとしても、いらいらは解消されません。この場合でも、いらいらしやすいという条件と、朝ご飯を食べないという条件は同時に満たされます。

相関関係というのは、両者が同時に満たされるとか、一方が満たされるとき一方は満たされないというような関係の強さのことをいうのですから、事実がこうだったとしてもやはり相関関係のあるグラフが得られます。

ということは、グラフだけを見ても、どちらが本当なのかは分からないのです。

朝ご飯を食べないからいらいらするんじゃなくて、いらいらさせるような何かがあって、それが朝ご飯を食べにくくしている可能性を、その統計データは否定できません。

にもかかわらず、勝手にデータから原因を引き出してしまう人はとても多いのです。

■統計データから原因を引き出すのは難しい

議論を実のあるものにする方法として、統計データを利用するのはよいことです。しかし、安易に自分好みの結論を引き出すために使うのはやめましょう。統計データは、どういう調べ方をすればいいか、次のステップに進むための指標として使うものであって、なぜこういう結果が出たのかの原因を求めるためにあるわけではありません。

もし、統計データから原因を引き出してしまっている人を相手にしたときは、それと同じデータになってしまう別な原因がないかを考えてみてください。

矢印

条件文は難しい?~不思議と間違いの多い条件文|議論の方法

条件文というのは、難しいものではありません。「ならば」という言葉が使われていれば、たいてい条件文です。たとえば、

「来年になったならば、本気を出す」

というのも、条件文です。何かしらの条件が満たされたら、どうなるという文が条件文です。

で、これの何が難しいのか?

 

■前件と後件

条件文は前件と後件から成り立ちます。

「AならばB」のAが前件、Bが後件です。そして、条件文が間違いとされるのは、前件が真で、後件が偽の時だけです。という説明だと、ちょっとわかりにくいですよね。例を出しましょう。

「来年になったならば、本気を出す」と言った人が翌年になっても本気を出さなかったら、嘘をついたことになります。でも、翌年になるまでは嘘をついたかどうかは分かりません。もし仮に、翌年になる前に本気を出し始めたとしても、嘘をついたとは言えないのです。

なぜか?

「来年になったならば」という条件が満たされたときの話はしましたが、来年になるまでの話はしていません。それ以前のことについては何も主張をしていないので、嘘をついたことにはなりません。

条件文が間違いだとされるのは、「○○ならば××する」といった○○が満たされているにもかかわらず、××がされなかった場合だけなのです。

 

矢印

 

■日常表現と論理的表現

しかし、そうはいっても、これは日常表現とは剥離していることがあります。

「明日晴れたら遊園地に連れて行ってあげるよ」と言ったお父さんが、翌日嵐の中を遊園地に連れて行ったとしても、「嘘はついてない」「おかしなことは言ってない」というのは違和感があります。

日常的には「○○したならば、××する」と言う表現は、暗に「○○しなかったならば、××しない」という意味を持っていることが多いものです。「遅刻したらお仕置きするよ」と言われた時、じゃぁ遅刻しなければお仕置きされないよねと思わない人がいるでしょうか?

確かに、論理的には遅刻しなくてもお仕置きしてかまいません。少なくとも、嘘をついたことにはならない。ですが、日常的表現で理解されるのが当然の場面で、「いや、論理学的にはそういう解釈は成り立たないから」というのはただの揚げ足取りであり、お互いに正確な意思の疎通を図ろうという努力を放棄しています。

私が議論において論理学の考え方をおすすめするのは、ごまかされないため、より正確にお互いの主張を明らかにする方法としてであって、相手の足下をすくって小馬鹿にするためではありません。

オセロ

逆、裏、対偶。相手の言葉の意味を勘違いしないために重要なこと。|議論の方法

議論と呼べることをするためには、まず最初に相手の発言を理解することから始めましょう。

議論のできない人の特徴の一つは、相手の発言を、反論しやすい形で解釈しようとすることです。このようなやり方をしていたのでは、「そういう意味じゃない」「いやお前の言い分はそういうことだ」と、終わらない言い合いになるだけです。

言葉というのは、ある意味を表すのに、一つの表現しかできないわけではありません。ですから、ある言葉を自分に馴染みのある言葉で受け取ろうとすること自体は問題ありません。それは大事なことです。しかし、その言葉を別な表現に置き換えるときは、意味を変えないようにしないといけません。

 

■逆、裏、対偶

論理学では逆、裏、対偶という概念を学びます。

たとえば、「人間は動物である」という命題があるとしましょう。この命題に対して、

逆 = 「動物は人間である」
裏 = 「人間でないならば動物ではない」
対偶 = 「動物でないならば人間ではない」

となっています。ここでの人間とか動物は記号に置き換えてもかまいません。

AはBであるに対して、BでないならばAではない、が対偶です。

さて、これがいったい何の役に立つのでしょうか?

実は、元の命題と対偶は常に同じ真理値を持ちます。同じ意味になる、と考えてかまいません。

ところが、逆とか裏はその保証がないのです。

 

オセロ

 

■まず対偶から考える

相手の言葉を理解して、それに対して何かの返事をするとき、相手の表現のままでは使いづらいことがあります。だからそれを別な表現に置き換えるときは、まず対偶に置き換えます。対偶に置き換える分には、相手の言葉の意味は変わらないので、ほとんどの場合問題ありません。

しかし、対偶をとっても答えづらい表現の場合は、逆や裏でも相手の発言の意味が変わらないかどうかをチェックしましょう。

たとえば、「明日は一月一日である」という発言は別な表現に置き換えられるでしょうか。

対偶である、「一月一日でないならば、明日ではない」はもちろん成立します。問題は残りの二つ。

逆の、「一月一日は明日である」は条件付きで成立します。もちろん、すべての一月一日が明日であるはずはありませんが、友達同士の会話で「○月×日はコンサートの日だよ」という発言に違和感はありませんよね。

これに対して「すべての○月×日がコンサートの日であるはずはないから、その発言は間違いだ」という人はいません。いたら怖い。

よって、「一月一日は明日である」という発言は必ずしも間違いとは言えず、その発言者の意図によっては元の命題と同じ意味となります。

では「明日でないならば、一月一日ではない」という裏の表現はどうか?

見かけない表現ですね。「明日は一月一日である」という発言者が、そういう意味で発言しているケースは相当珍しいことだと思います。

このように、逆や裏の表現に置き換えられる場合とそうでない場合は状況や発言内容によります。解釈次第でなんとでも言えるようなやり方ではのらりくらりとかわされますので、逃げようのない強制力のある対偶という解釈を使うのが、議論の方法論としての基本です。

会議

全称量化とか存在量化は耳慣れない言葉ですが、議論には欠かせません|議論の方法

全称量化とか存在量化というのは、述語論理で出てくる言葉なのですが、あんまり馴染みがないですよね。アリストテレスの表現なら、全称命題と特称命題になります。これでもやっぱり、ちんぷんかんぷん。でも、意味自体はとても単純です。

全称 = みんな・すべて
存在 = 或る・そういうものが存在している

すべてがそうなんだと表現すること = 全称量化
そういうものがあるんだと表現すること = 存在量化

全称量化した表現 = 「すべての人間は動物である」
存在量化した表現 = 「ある人間は動物である」「動物であるような人間が存在する」

といった感じになります。

会議

専門用語だと難しく感じますが、意味自体は簡単ですよね?

■レッテル貼りによく使われます

古代ローマの英雄、ユリウス・カエサルの言葉に「人は見たいと思う現実しか見ない。見たいと思う現実なら、進んで見ようともする」というのがあります。ある人々にある種のレッテルを貼りたがっている人はよく、ある集団の一部に見られる特徴を挙げることで、その集団全体の特徴だと考えてしまいます。

たとえば、最近の子供たちは聞き分けがなく、凶暴だというレッテルを貼りたがっている人たちは、メディアが報道する事件を挙げ連ねて、少年犯罪が増加していると考えてしまいます。ところが警察白書などを調べてみると、ずっと安定して犯罪件数は減少を続けているのです。

このように、ある集団にある特徴を持つ者がいるからといって、その集団全体にそういった傾向があるとか、その集団の大部分はそうなんだなどと考えると、大間違いをしてしまうことになります。

■量化は慎重に

我々が知ることのできる事実はほとんどの場合、ごくわずかです。いくつかの例を知っただけで、みんなそうなんだと考えるのは間違いの元です。一部を知っただけの時は、一部しか知っていないということを肝に銘じて、不用意に全称量化をしないように注意しましょう。

そして、不用意に全称量化をしてしまっている相手を見つけたときは、どうやって全称量化したのか、そういうものがあるということから、みんながそうなんだまで飛躍させた理由を確認してください。

多くの場合、それは思い込みや決めつけから成り立っています。相手の思い込みを暴くことができれば、相手の主張の根拠を失わせることができるでしょう。

議論の方法として、相手のよって立つ足場を崩すことは大事な一歩です。崩れかけた足場を補強しようとして、さらに怪しい理屈を組み立て始めるもので、そうなれば瓦解するまでには一押しとなります。

世界の誕生

「世界五分前仮説」の間違いは証明できない。では、正しいのか?|議論の方法

「世界は五分前に誕生した」。

そんなことを言い出すやつがいたら、(何言ってんだこいつ・・・)と思ってしまうでしょう。

世界がいつ誕生したのかについて、地球の年齢とか宇宙の年齢の科学的データから議論している最中だったら、馬鹿馬鹿しくて相手にしたくなくなるはずです。

ところが。

ところがですよ?

こんな仮説でも、間違っていることを証明しようとすると、できないのです。

■「世界五分前仮説」とは

世界の誕生

 

世界五分前仮説では、世界は「まるで五分よりも前から存在していたかのような姿で」五分前に誕生したことになっています。

織田信長やユリウス・カエサルの資料も、ナポレオンやフリードリヒ大王の記録も、昨日食べたご飯の記憶も、亡くしたペットとの思い出も恋愛の対象も、すべて五分前に作られたのです。

そんなバカなとは言いたくなりますが、困ったことに、そう考えても辻褄は合います。

■「世界六分前仮説」とは

では、世界六分前仮説ならば間違いが証明できるでしょうか?

理屈は一緒です。「まるで六分よりも前から存在していたかのような姿で」六分前に誕生したと考えても、辻褄は合います。

5.1分前とか5.11分前仮説でも事情は変わりません。そして、5から6の間には無限の実数が存在します。

ということは、数字の部分だけを変えた仮説を無限に作れることになります。もちろん、5から0の間にも無限の実数がありますし、6以上の数にも、無限の実数を作れます。

ということはです、もし仮に「間違いを証明できないなら、その考え方は正しい」という考え方を認めてしまうと、「世界がいつ誕生したのかという答えは、無限にある」ということを認めなければならなくなります。

「君の誕生日はいつ?」と聞いてみたら、「毎日だよ」と答えられたようなものです。意味不明です。

といったわけでありまして、「俺様の間違いを証明できないなら、俺様は正しいんだ」という論法に遭遇したときは、「間違いが証明できないことは、正しいことの証明にはならない」という指摘をしてあげてください。

その考え方だと、世界五分前仮説を信じなければならなくなるよ、とね。

■自己矛盾を引き出すこと

議論を制する理想的な方法は、相手の主張を矛盾させることです。我々は普通、矛盾した主張は間違っているという意識を持ちます。この意識を持たない人とは、議論なんて高度な話し合いはしない方がよいでしょう。

お互いの意見をぶつけ合うだけでは平行線で終わるかもしれませんが、相手の矛盾を証明できれば、相手は主張を取り下げざるを得ません。

今回のように、「あなたの主張が正しいとすると、あなたはこういう主張も正しいと認めなければならなくなりますが、それでいいですか?」というのは、相手を矛盾させる基本です。

ポイント

自分が正しい可能性はあるだろ? だから自分が正しいんだ、という傲慢さ|議論の方法

世の中では様々なテーマで議論が行われます。そしてその多くの場合には、正しい答えはまだ誰も知らないものです。

神ならざる者には正解が分からないようなテーマの時というのは、人はそれぞれ自分の趣味や思想、勝手な思い込みで答えを決めつけることがしょっちゅうです。

たとえば人生論について話し合ったときなんかがわかりやすいのではないでしょうか。

そのような、解釈次第でなんとでも言えるようなテーマの時は、ある人の考え方が間違っていることを証明するのは難しかったりします。

そして、自分の主張の間違いを相手が証明できないことで、自分が正しい可能性があるといい、だから自分が正しいんだというところまで飛躍する人が出てくるわけです。

その根底にあるのは傲慢さです。

ポイント

■証明は全部お前がしろ。できないなら俺様が正しい

このタイプの人の論法には特徴があります。

それは、他人の証明にけちはつけるけれども、自分は何一つ証明をしないことです。

彼らは他人の証明の間違いや疑問点は指摘します。しかし、自分に対する指摘には「じゃあ何が正しいんだ」と正解の提出を求めるのです。それに対して無理に回答した相手に対して指摘するわけです。

ここで言い負かされてしまう人が多いのですが、その原因は不公正を見抜くことができていないことです。ここにはとんでもない不公正が隠されているにもかかわらず。

■彼らの議論がひどい理由

彼らの議論の方法はひどいものです。彼らの理屈は二つに分かれます。

1,「相手の主張が正しいことが証明されないならば、自分が正しい」
2,「自分の主張の間違いが証明されないならば、自分が正しい」

彼らは決してこうは考えません。

3,「相手の主張の間違いが証明されないならば、相手が正しい」
4,「自分の主張が正しいことが証明されないならば、相手が正しい」

おわかりでしょうか。1,2の考え方と3,4の考え方は同じです。自分に有利か相手に有利かが違うだけです。

証明というのは実はとても手間のかかる作業です。可能だとしてすらです。そもそも証明できるようなテーマではないときなどは、証明もどきをすることですらどれほど大変か。

ところが彼らは、自分では何も証明せず、相手にだけ証明をさせて、自分は文句を言うだけ。これが傲慢でないなら何を傲慢と呼べばいいのでしょうか。

このような傲慢な人々と遭遇した場合の最良の対処法は最後にご紹介しますが、まずは相手のずるさを指摘してあげましょう。

「私の正しさが証明できないことが、あなたの正しさの証明になるのなら、あなたの正しさが証明されないことも、私の正しさの証明になってしまうんじゃないの?」

と。