古代ギリシアの哲学者、ソクラテスをご存じでしょうか。「自分は何も知らない、というただ一つのことを知っている」と言ってのけた、哲学の祖です。
ソクラテスはたくさんの人間に議論を仕掛けました。しかしその議論の形は、むしろ質問攻めというようなものでした。
なにしろ、自分は何も知らないと言い切っているので、自分の方から答えはこうだということはありません。すると、ソクラテスを相手にする人は、自分の正しさを証明しなければならないのです。
どこまでもどこまでも続く、鋭い追求の中を。
■知ったかぶりをしないことの強さ
なぜソクラテスの追及を受けなければならないのか?
ソクラテスが何も証明しようとしないなら、自分も証明する努力はしなくてもいいんじゃないか?
そんな気がするかもしれません。ところがそうはいかない。なぜならば、その人々は「自分は正しい答えを知っている」と思い込んでいるからです。
もし両者が共に無知の知に基づいているならば、議論を避けることができるのですが。
悪魔の証明でもお話ししましたが、「あなたが本当に正しい答えを知っているのならばそれを教えてください。すでに知っていることを説明するだけなんですから、簡単ですよね?」というのは、省エネの観点からも筋が通っています。
議論が平行線をたどるためには、両者が自分が正しいと考えて言い合わねばなりません。一方が「自分は答えを知らないので教えてください」といってしまえば、平行線にはならないのです。
■最強の防壁
相手の証明にけちをつけるだけで、自分は何も証明しようとしない傲慢な人の話をしましたよね。そういう人に対する最強の切り返しがこの、無知の知です。なにしろ、立場が逆転します。
傲慢な人の切り返し方は、「俺様の言い分に納得いかないなら、お前はどう思うんだ」です。ここで答えるからこそ、相手はその答えにけちをつけることができます。
しかしここで、「いや、私には分からない」と答えたらどうなるでしょうか? もう、相手はけちのつけようがありません。そこでもし、相手が「じゃあ俺様が正しいんだから黙ってろ」と言ってくれればしめたもの。
どうして正しいと言えるのか?
それをちゃんと証明してくれ。
と、こちらだけが相手にけちをつける名分を得られるのです。
だって、私が正しい答えを知らないからといって、私以外の全員が正しい答えを知っていることにはならないですよね。
これが無知の知の防御力です。
■議論の本質
ところで、多くの人にとって議論とは、勝ち負けを争うもののようです。しかし、議論に親しんだ人間からしてみればそういうものではなく、考え方の異なる者たちが集まり、よりよい回答に到達しようとする共同作業です。
ですので本来的には、「俺様が正しい。俺様と違う考えは全部間違いだ」ではなく、「自分は正しい答えを知らないし、たぶんまだ誰もそれを知らないんだろうけども、本当は何が正しいんだろうか」と、そういうことを話し合うのが議論であってほしいのです。
そういうまともな議論を行う方法として、これらの記事がお役に立てば幸いです。